カールパークレーンヒストリー(三永株式会社)
1978年12月21日三永株式会社設立
1978年12月21日みぞれが降る寒い1日でした。
設立を成立させるためにテキスタイルでの仕入れが開始されました。
阿部社長と営業2人デザイナー1人の小さな会社でした。
三永株式会社は比叡山の阿閣梨様に命名していただきました。
1月に最初の商品の展開をするために、阿部は春のオリジナルカラーを前社引継ぎが終了した11月27日に静岡で信号待ちをしている時にその信号をみて「赤、イエロー、グリーンのブライトカラー押しで」と決断をして即ビーカー出し(色付けのための施策の事)をして1979年春のカラーを決定した。
その色がヒットして三永株式会社は前社からの阻止行為があったにもかかわらずアパレルメーカーとして出発した。
1978年の冬はアパレルには厳しいシーズンではあったのですが、1979年1月にブライトカラーの商品が出荷され三永株式会社として本稼働した。
当時三永株式会社はボトム中心の新幹線の駅のある主要な都市の小売店に販売するアパレルでした。
1970年後半から1980年にかけて日本のファッションはコムデギャルソン、ヨウジヤマモト、三宅一生が発信するDCブランド原宿、渋谷パルコに開店しアパレルがブランドビジネスに方向の舵を取りかける。
三永株式会社は当時サンアイズというブランドでボトムビジネスを展開していたが、小売店の強い要望ボトムに合うジャケットをと言われ、ジャケットの試作を始める。
当時1990年公開されたプリティウーマンの映画のラストシーンでジュリア・ロバーツか着用していた紺ブレ(紺色のブレザー)が人気になり取り急ぎ紺ブレを大至急50枚生産し販売したら2日で完売しました。
それがキッカケでトップスの展開をして1991年セットアップコーディネートを確立した。
同時に社内公募でブランド名を募集しカールパークレーンブランドの誕生になります。